浅草弾左衛門書名 : 浅草弾左衛門 著者 : 塩見鮮一郎 出版社: 小学館文庫 全6冊 天保青春編(上)268ページ 1999.1.1初版 \579 同上 (下)269ページ 1999.3.1初版 \630 幕末躍動編(上)310ページ 1999.5.1初版 \690 同上 (下)312ページ 1999.5.1初版 \689 明治苦闘編(上)372ページ 1999.7.1初版 ¥709 同上 (下)369ページ 1999.7.1初版 \709 感想 : 2006.9.14~16に関連日記 そもそも読み始めたきっかけは http://plaza.rakuten.co.jp/pombo/diary/200601040000/で扱った 五木寛之著 が、「面白い」と紹介していたのでした。 〔〕内に現代用語訳 時刻地名も。これ楽だった。 主人公を表す時に「彼直樹」という表現。珍しいかも。 最初の一冊天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱の頃。つまり http://plaza.rakuten.co.jp/pombo/diary/200505270000/ 三浦綾子著 「海嶺」 (角川文庫 上中各\567 下\525)の主人公達が帰国する頃と同じ時代。 幕命で、養子になる 結婚が早い。主人公は母が16,7で出産している、主人公の二人目の妻は十二歳。これ、数えでだから、いずれも十数歳で出産...今より早熟? 江戸海幕、徳川家康の頃よりずっとえた 「家康入国の時より、それぞれ由緒など思し召されて私支配下に仰せつけられ~」 (だから埼玉県では、部落は江戸時代の身分制度から、と教えているのは、まちがいとも言い切れない?) けど 源頼朝が二十八座支配を認めている。 気になった記述 : 天保青春編(上) 長吏(関西)=非人(関東) かわた(関西)=えた(関東) えた>非人 (その中に野非人=浮浪者) 非人の頭領(車善七) えたの頭(浅草弾左衛門) 長吏の中にも身分 長吏頭 天然痘に対して赤絵(疱瘡絵) これ、 http://plaza.rakuten.co.jp/pombo/diary/200410050000/で扱った 「疫病は警告する」(洋泉社新書116濱田篤郎著¥798)に出てくる話ですし。 弾左衛門の父の言葉: 「駕籠に乗る人かつぐ人そのまた草鞋を作る人 「日本橋馬鹿をつくした」これ、地名だった? 馬鹿? さらし場なんだけれど。 1838年小太郎は第十三代浅草弾左衛門となった。 囲内、二百三十二軒、猿飼十五軒、 関八州、伊豆、駿河、甲斐、陸奥十二ヵ国五千四百三十二軒、猿飼四十六軒の頭。 江戸非人小屋七百三十四軒、当地外非人千二百六十一軒の支配。 (寛政十二年の統計でね) 鎌倉幕府の頃、弾左衛門の支配下にはいわゆる二十八座がいた (長吏、非人、猿飼、座頭、舞い舞い、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻盲、鉢叩、弦指、石切、土器師、放下師、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鉦打、獅子舞、蓑作、くぐつ師、傾城屋等 江戸末期には猿飼と非人のみ 天保青春編(下)特になし 幕末躍動編(上) 白山社p109~111 総本社は加賀国(石川県)白山比○(口羊で一文字)(しらやまひめ) 江戸の小石川はそこに白山神社があるからついた地名 総本社の祭神はいざなみのかも、いざなぎのかみの他、しらやまひめ神と呼ばれる菊理ひめ神の三柱 白山社の本地(真実神)は十一面観音 白山は本来は朝鮮からの帰化民族が奉る山。その氏族は漁労や皮革、陶器、冶金の術に優れていた。 向島の白髭神社は高麗が祀った猿田彦神。 久里浜からペリー黒船警護した忍藩 しのはんってふりがな書いてあるけれど、おしはんだから!行田ね。p143 「三国長吏家系図」実在?に拠ると * 日本の長吏の由来は延喜御門(醍醐天皇901~923)にはじまる。延喜王の第一皇子は堅牢地神の化身で、一切衆生を助けるため、身に漆を塗った。悪病になり内裏を下り、清水の麓に御所を建て、阪本の土御門という。御子を持ち給うこと六人なり。その六人の御子達の流れが、日本の長吏となり。よって著吏の異名の高きこと、このためなり。しかるに、長吏は善を離れず、悪を離れず、また祝儀にも離れず、天下守護いらずのめでたき物は長吏なり。p146 「治穢多議」加賀藩千秋藤篤藩士著 実在? えたは各藩に在るが、明席に加えられず、他身分との婚姻も許されない。死囚の扱いと皮剥ぎ、革細工を手とした仕事とする。そのため、人はこれを醜類と見なし、袖が振れると穢れるといい、脚がその土地を踏むと不潔であるとする。ためにその徒は、また自らの親のみを親とし、その子のみを子とする。病にかかってもおたがいに相哀れみ、村の外に助けを求めない。その交友は狭く、費やすところも少ない。為にしばしば冨を蓄えている。なぜこのような身分の者がいるのかと問えば、人は、昔の異人の末裔だとか、陵墓を守る者であったとか、といい、またそれらの者は、人の姿をした獣であって、ために蒙昧で病気にでもなるとからだが腐乱し、その臭さときたら、とても近づけたものではない、という。その汚穢(おえ)のため、祭りにいれてもらえず、住処も郊外にまとめて置かれている。しかしそれが天地に物が生ずるに、人でない場合は、獣か鳥か草木土石である。どうして人体にして同時に獣性ということがあろうか。かつての異人の捕虜は帰化すれば必ず朝廷の臣に列せしめたし、まして先祖の陵墓を守る者なら平民にしてもおかしくないではないぁ。西土(欧米)にえたといった者はない。云々p233~235 関西での説: 無脚、三韓征伐のおり、我等が祖先がお共して、かの地の風習から穢肉を食するようになったためにつけられたとか申しますな。穢肉を食するなら獣の不浄物も扱えと。それで醜名。 昔は貴賤にかからわず獣肉を食していた。仏の教えで摂政禁じられ、貴族は魚介類、貧しい方は相変わらず獣肉。 1852年 埼玉県の伸仙寺が長吏身分の者が台所に入るのを禁じた。 1856、7年頃、 江戸幕府は弾左衛門を通じて 箱館 にえたを送った そこで送った側は送られた者が近い将来平人にしてもらうことを考えながら受け入れた。 吉田松陰の遺体を引き取りに来た桂小五郎と伊藤博文 開国にともなう伝染病 コロリは知っていたけれど、アメリカ風邪ってなぁに? (身体の病気だという説よりも、心の病気って説が多いようで...本当は何だったんだろう。インフルエンザ?) この時代って高杉晋作、井上馨、伊藤博文がイギリス公使館を焼き討ちした頃、つまり、「間諜 洋妾おむら(らしゃめん)上下」と同時代。 幕末躍動編(下) えた戸数 武蔵(三千)新町(弾左衛門の処三百)上野二百、下総四、五百、相模四、五百、常陸百、上総百、伊豆百以下、甲斐百以下 非人戸数 浅草車善七四百、品川松右衛門三百 摂津国、河内国、播磨国にいるかわたは五万四千人(総人口百二十四万、つまり23人に1人がかわた) えた金 高利貸ししていたの! (幕府役人が、身分引き上げを餌に借りにきていた) 長州では開国の頃からかわたにも百姓同様に鉄砲を持たせた。 (これがいいことかどうか...同一になった? それとも利用された? 組み込まれたわけだし) 渡辺村では土佐藩士とも相談のうえ、幕府に対して、賤称廃止の嘆願書を提出した。{不浄なご用を勤めてきたために、ついに人間の交わりもできなくなってきたが、外国人もまた獣肉を食しているのに、あちらは丁重に扱われている。ならば、私どもばかりが差別を受けるいわれはない」 薩摩藩士 益満休之助 実在?! 浅草弾左衛門のところにきて、賤称廃止、身分引き上げを条件に反幕で一緒にならないかと誘う。 島津藩の家紋と似ている浅草弾左衛門の家紋。○に十字 島津始祖忠久は頼朝七男 浅草弾左衛門の始祖は頼朝が菜摘み女にうませた子という説←由比ヶ浜の長吏頭 島津←秦の帰化人説、弾家も。 薩摩藩では浄土真宗は禁制だった! 長州征伐で大阪渡辺村に幕府の兵隊としてえたを送る。 浅草弾左衛門の前の代(血のつながりなし)の治療に来た幕府の御殿医松本良順 実在?! の勧めで幕府に醜名廃止願いを出す。1868年1月受け入れられる。 弾家の菩提寺 本龍寺 実在?(今戸八幡 実在?!ならびにある) 後書きに拠ると、現代文学文壇は著者を黙殺し続けているそうで。もし、本当なら、これぞ差別? 明治苦闘編(上) えたの賤称を取り除けるなら、幕府の軍隊になる、資金も出す(まずは50万両) 身分引き上げは順に。一度でだと混乱が起きる。と直樹は主張。 江戸末期の長吏の仕事 お仕置き、時太鼓西洋太鼓等の皮張り替え、馬の口につける引き綱、燈心、法事手伝い、両町奉行署人即差し出し、溜のご用、火災時守り、消火、御用馬埋葬、長吏以下のお仕置き、ご府内無宿取り締まり、お尋ね物探索、海陸軍病院御用、犬追物御用、堀や川の不浄物片づけ 犬追物御用(犬を的にした騎射)が幕末にもあった! 明治新政府から、これまでの権益を認められていた。旧幕府から明治新政府への細い橋をうまく渡った。 合図若松 官軍は横暴だった...老若男女の百姓を意味無く殺戮 江戸が東京になって、町人には振る舞われたのに、囲い内には祝い酒が振る舞われなかった。直樹が動いて結局振る舞われた。 明治天皇の行幸に際し、えた村は天皇に目障りだから、筵で隠せ。この命令は政府から直樹を通じて出された。 それにしても、目障りだから隠せ...東京オリンピックの時にも、最近では愛知万博でも言われた... まぁ、目に見える所はきれいにして、ってのは私もそうだけれど... 外国人に見せるのも恥ずかしいから、「刈り込み」をしていた。 岩倉具視の発言「えたの如く他の人民と平生交通しにくい事情のある者を蝦夷へと送れ」(石上良策に拠る。実在?) 下練馬の谷戸 榎本武揚が練馬のえた杉本ちとせとの間に男の子 養育費は払っていた 教育所=お救い小屋 三田、麹町、高輪にあった。 高輪は野非人や乞食用 三田と麹町は武士と町人の貧乏人用 身よりのある者は引き取りに来て貰い、無籍の者は置く、病人幼老は養生、壮健な者には手業を授け、土木などの仕事をさせる。 浅草三間町(雷門2丁目)に種痘館出張所があった。誰でも受けられた! すごい! 明治元年頃よ。 榎本武揚 オランダに6年間留学 福沢諭吉 幕府使節随行 欧米に3回 靴工場 佐野藩士 西村勝三 入船町(現:NTT築地電報電話局敷地) 当時島原遊郭近く 島原遊郭は外国人用 ex.チャールス・へンにンケル 1年契約 関口水道町(文京区関口1丁目)の倉庫 越後屋のもの 弾左衛門靴工場(滝野川)の候補地として 技術者は中国人やアメリカ人。高い給金を払って呼んだ。 牛込村のらんちゅう舎 幕府天医松本良順のクリニック 神戸のえた、フロ谷に住む人々、楠木正成の湊川の墓に供えた花、水戸黄門伝説、 幕府が認めていたから土地を得て花栽培。神戸開港後、土地高騰で手放す。金を使い果たし、生きられない! えた解放に動いた大江卓造 大隈重信との関連 民部省の大木喬任 弾内樹も一時、民部省の御用掛(すでに、兵部省と大学東校の御用、東京婦長づきだった) 海軍兵学寮 (現中央卸売市場) 西洋風の大きな建物 居留地(八丁堀の隣)には築地ホテル 身分と職業が分かちがたかったのに、職業のみを外した → 食べられない 権益を失い、新たな租税を課せられる でも、当時、みんなひっくりかえったしなぁ。この点を突くと、問題だわ。 「イギリスとフランスの軍隊が日本に駐屯しているなど、まるで属国の姿ですわ」今は~? 明治苦闘編(下) 三井呉服店越後屋→三越 明治5年10月、ロシアの皇太子が来る→うろついている乞食を集めた、→二ヶ月後養育院へ、その」場所が今の動物園 働き手を学校に取られ、学費まで出せ、そのうえ徴兵令で働き盛りの大人を持って行かれる、侍が廃藩でぶらぶら歩き回り、西洋人がやってきて鉱山をさがしてる。 徴兵で人血を採り、観衆の頭を断髪にし、学費は取られ、えたと同様に扱われ、肉食して、だから牛を捕られ、異人支配になる 百姓の言葉。 幼童学所 潮江院(禅宗寺)に小学校。8年間。 差別されている地域の人たちのための? (吉野町ー新鳥越町、正法寺にもある、こちらは、開明学校という公立学校になる) 内国勧業博覧会(博物館の新書に載っていた)に、靴を出品している。 アメリカ人宣教師ゴーブルが訳した「摩太福音書」 「このわいらの立っとる地面が、平ったくのうて、大きな土の鞠やといわれたのには、もう、おどろき桃の木や。それ以降、歩いてでも、空にむけて落っこちそうで、ふらふらして気持ちが悪いや」 貧しいと? 結婚する者と離婚する者をくrべれば、後者のほうの多いくらいだ。なんど離婚しようと、だれも目くじらをたてない。好いていっしょになり、飽きが来て別れる。子が鎹になってくれないのは、十でぼつぼつ働きに行くか、早く世帯を持って離れてしまうからで。 板垣退助の頃、岡山で「嗚呼我同胞三千五百有余万の兄弟よ、云々」これ、橋のない川にも出てた? 明治十一年 東京府府会銀選挙時の人口95万内、有権者1.3万人。 明治十二年 区議会選挙。浅草選挙区定員60中、4名が直樹配下の革問屋 明治十一年 築地にできた新栄協会 元えたむらに作った 横浜から大司教を呼んだ。 キリスト教がかなり浸透し始めていた? 大江卓 岩手県監獄に収監される 戦後、米軍の残飯のごった煮があったのは知っていたけれど 戦前にもあった、明治時代にすでに、陸軍の残飯で残飯屋があった! 岩波文庫、横田源の助「日本の下層社会」にも書いてあった↓ 「内職といえば、巻きたばこ、マッチの箱張り、ランプの笠張り、足袋縫い、ハンカチ縫い、鼻緒の芯、状袋張り、団扇張り、炭団造り 上野駅から熊谷まで38里、150kmとなっている(p277) 嘘だぁ。たしか50kmぐらい? 明治十七年 清国とフランスが戦争状態になったのも、政府の危機感を強めた。福沢諭吉をはじめ自由民権家までもが軍備拡張に努めるべしと新聞紙上で主張した。 浅草六区 北海道の開拓をまねたのか、大池(大きくて、以前のとは別の瓢箪池)を掘らされたのは囚人たちであった。出てきた土で前の瓢箪池とのあいだに小さいすり鉢山を造り、残りの土で、大池の東側の浅草田圃を埋めた。ここにできた一万六百余坪の新地を六区と呼んだ。 花屋敷を出て、大池のそばを通って、六区の広い通りの人混みにまじった、 六区の通りには、見せ物小屋がならび、登りが何十本、何百本とはためき、客寄せの声もやかましかった。奥山にあった小屋がここへ撮されたのである、奇形牛の見せ物、盲と女相撲、蟹娘云々 p298,9 政府のひも付きの金で外遊した板垣退助が、見事に変節した。喜んだのは別荘狂いの山形有朋 数百人の伝習生が熟達して、日本全国に皮革製造所の設備のない場所はない。 だから、被差別者には靴製造者が多いわけ。 単純に革を扱っていたからではなく、米中から技術者を呼んで学ばせたから 今戸本竜寺が弾家の菩提寺 井戸水で冷やした麦茶・・・いいなぁ。 誤植 p334 なつた→なった これ以外に誤植なかった、気付かなかった、すごいわ。 あとまちがいは、p277の熊谷までの距離と 忍藩の読みまちがいだけ幕末躍動編(上)p143 親切ならば、出版社か著者に知らせる? 巻末に大量の参考文献、 解説中)弾直樹は、明治維新とそれに引き続く通商「賤民身分解放令」の後、「解放」と引き換えに奪われた生計の手段を、仲間に保障すべく取り組むことになる。さて、部落差別におって、「近代」とは一体何なのだろうという、根本的な問いである。近代というとき、本来ニュートラルなこの言葉が、「価値」を前提にしてしまうところに、この国の特有な近代史が反映されている。だが、その「良いもの」という、うたがわれざるニュアンスは、実は選出の「改革」と同じで、「権力にとっての」という註を必要とするのではないか。 人口 幕末期 猿引、非人、乞胸 は戸数で、長吏の1/10 明治元年 新町囲内 417軒、善七手下363軒、品川非人手下143軒、 深川及び木下川非人手下67軒、代々木非人手下37軒 (この時期、武士が減ったので、江戸の人口は半分、50万人。) 1871年 東京府下 えた身分1143人(男555、女588) 新町に住んでいた。 非人身分2891人(男1664人、女1227人) 明治5年 日本人口3470万人、家、えた45万人、非人8万人 2021.09.28 地名を削除いたしました。 都内、埼玉県内、岡山県内の計20地名程が著書内にまとめてあったのを写し書きした記憶があります。 昨日判例に基づきました。 著書内に記述されていたものですし、ここに記した以降20年ほど経ち、さらに部落差別は減って、過去の遺物になっている、負の歴史の研究初心者には役に立つかもしれない、という私の認識はまだ甘いのかもしれないと思いました。 過去の歴史として冷静に語られる時代が早く来て欲しいものです。 気になる書物 恋川春町 黄表紙 「金金先生栄花夢」 目黒不動尊門前粟餅屋でみた短い夢 気になる表現 ばってん ← 罰点 |